2015年8月26日水曜日

毛皮のヴィーナス

至高の女は、恐ろしい。

毛皮のヴィーナス('14)
監督:ロマン・ポランスキー
出演:エマニュエル・セニエ、マチュー・アマルリック



極私的ボンドガールベスト然り、ここ数年やってる映画ベストガール然り、華と毒気と強さを備えた女性キャラが大好き傾向の自分。
しかし、こんな女性を「いいなぁ」なんてうっとり観てられるのは、彼女らがスクリーンの中の存在だから。だって、ベストボンドガールはゼニア・オナトップにメイ・デイにエレクトラ・キング、去年のベストガールもアルテミシアにマザー・ロシアにハンマーガール……
このメンバーが目の前に現れたら、そりゃ憧れたり見とれたりするだろうけど、最後には死ぬ気しかしなくなるよ。

パリの劇場。演出家トマは自身の脚色作『毛皮のヴィーナス』のヒロインオーディションを終えるも、どの女優にも満足できず苛立っているところだった。
そこへ一人の女がやってくる。名前はワンダ。奇しくも『毛皮のヴィーナス』のヒロインと同じ名前である。大幅に遅刻してきたうえ、がさつで教養もなさそうなワンダをトマは適当に追い返そうとするが、彼女は強引にオーディションを始める。
しぶしぶ相手役を務めたトマだったが、ワンダは先ほどとは別人のように淑女そのものの立ち振る舞いで、セリフも完璧。彼女との芝居に没頭していくトマは、役柄に倣うように彼女に服従し、支配されていく。

ポランスキーについては『ゴーストライター』で、「自身の人生が映画よりも劇的なせいか、どんな切羽詰まった状況を描いてもどこか平熱」と書いた。
だが本作では、登場人物はワンダとトマの二人だけで、舞台は劇場の中だけという大幅な制約の中、ずっと劇的で情熱的だった。

「どこにいるのか分からなくなってきた」とは作中のトマの一言だが、観ているこっちだって自分がどこにいるのか分からなくなる。ワンダとトマのやり取りと、劇中作のワンダとクシェムスキーのやり取りには当初線引きがあったはずなのだが、次第にその境界線があやふやになっていき、今喋っているのは女優のワンダなのか役柄のワンダなのか分からなくなってくるのだ。

が、その「分からない」というところが、話をややこしくする以上に魅力的なのである。観ている側も、トマあるいはクシェムスキーと同じくワンダにのめり込み、ワンダに振り回されるのを楽しんでいる。これがマゾッホ的感覚というやつなのだろうか……
とも思うが、実は「傲慢にして魅力的な女と、彼女に恍惚として従う男」という構図すら、安直なSM発想として足蹴にされる運命にある。

もう少し下世話な観方をすると、本作がいつになく劇的で情熱的なのは、エマニュエル・セニエの夫たるポランスキー監督自身こそ、一番ワンダに振り回されるのを楽しんでいるからじゃないだろうな?

そして、ワンダの魅力には、怖い代償もついてくる。そもそもなぜワンダが魅力的なのかといえば、淑女と女王様、貞節と淫靡、教養と無知、繊細とガサツさ、男が女に求める両極端な要素を併せ持っているうえに、使い分けが巧みだからである。付け加えるなら、自分のドツボである「華と毒気と強さ」もある。
しかし、すべての要素を持ち自在に操れる女はまずなかなかいない。そんな至高の女がいるとすればそれは……。

結論をたぐりよせるころには、トマも観客も、皆毛皮のヴィーナスに突き放され捨てて行かれる。それは、無意識のうちに醸し出している女性蔑視への、あるいは単純なSM概念への逆襲のようでもある。
女性と結婚にまつわる普遍的な不安と恐怖をあぶり出したのが『ゴーン・ガール』だとたら、本作は理想の女性像を至高の域に高めた結果、とんでもなく恐ろしいものがあぶり出される映画だ。
自分にとってはスクリーン越しの出来事だったから、腰が砕けた心地になった程度で済んだのかもなぁ。