2016年3月28日月曜日

ヘイトフル・エイト

ヘイトフル・アメリカ、ホープフル・アメリカ。

ヘイトフル・エイト('15)
監督:クエンティン・タランティーノ
出演:サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル



「愛憎半ばする関係だね」
マリリン・マンソン師匠は自身とアメリカの関係性をこう語った。
本作観賞後、もしかすると同じ問いかけをしたら、タランティーノも同じような答えを返すかもしれないと思った。ただし、師匠の倍以上に喋りながら。

雪山で足止めをくらった賞金稼ぎマーキス・ウォーレンは、レッドロックの町へ向かうために通りかかった1台の駅馬車に同乗させてもらう。馬車に乗っていたのは同じく賞金稼ぎのジョン・ルースと、彼と鎖で繋がれた賞金首の女デイジー・ドメルグ。ルースはデイジーをレッドロックへ護送し絞首台へ送る予定だ。道中、レッドロックの新任保安官だという、元黒人殺しの略奪団員クリス・マニックスも同乗してきた。
猛吹雪が迫ってきたため、駅馬車はレッドロックまでの中継地点である「ミニーの服飾店」に停車。店には同じく吹雪で足止めされた3人の男たちがいた。レッドロックの絞首刑執行人でイギリス人のオズワルド・モブレー、カウボーイのジョー・ゲージ、南軍の元将軍サンディ・スミザーズ。そして、ミニーに留守の間店を任されたというメキシコ人のボブ。
それぞれの素性は果たして本当なのか? 実はつながりのある者たちもいるらしい? 疑惑と緊張感が高まる中、遂に事態は殺人へと発展する……。

(注:以下、ネタバレに触れずに語るのが難しいため、核心に触れる部分は反転させています)

日本では「密室ミステリー」と宣伝された本作ではあるが、ミステリーならキモになるはずの「誰が/どうやって殺した?」問題は、まったくと言っていいほど関係がない。むしろキモとなる謎は「こいつら、実際のところどういう奴なんだ?」「どう決着をつけるんだ?」である。そこがタランティーノ自身言及していたように、『遊星からの物体X』を彷彿とさせる。
ただし、『物体X』のようにクリーチャーが潜んでいるわけではないので、疑心暗鬼サスペンスはグロテスクな何かが現れることもなく中盤までずっと会話劇中心に展開される。映画自体およそ3時間続くのだから、タランティーノ最大級の長丁場である。従来のタランティーノなら、『レザボア・ドッグス』のマドンナ話なり『パルプ・フィクション』のオランダのマクドナルド話なりに該当する、本筋に一切関係ないムダ話を入れているのではないかと思われるが、困ったことに本作の会話劇にはキャラクターの人となりや主義や思想が織り込まれているため、ムダなところがほどんどない。『イングロリアス・バスターズ』のランダ大佐の長喋りに削れるところがないのと同じだ。
ただし、ある事件を転機に、一気に山小屋の中は血しぶきと脳髄まみれになっていく。『物体X』転じてもはや『死霊のはらわた』。そりゃ3時間で満腹にもなりますよ。

もともと主要登場人物の大半がロクな輩じゃない傾向にあるタラ映画だが、今回の主要メンバー8人はロクなもんじゃないなんてもんじゃない。賞金稼ぎマーキスは元北軍少佐で、南部の白人を殺しまくっていた黒人。しかも白人憎悪が高じたあまり、聞いてるほうがドン引きするほどの暴挙もやらかしたことがある。一方マニックスやスミザーズ将軍は黒人を大量虐殺してきた元南軍。必然的に南北戦争時の憎悪がたちこめる(そして、サラリと屋内を南北や中立地帯に分けていくのがイギリス人だ)。その南北対立には積極的に関わろうとしないいわばリベラルのルースとて、何かにつけてデイジーを鎖で引っ張り、全力でぶん殴る。同じく対立に関わらずとも、一番「コイツ怪しい」感を振りまいているのは、口数の少ないカウボーイ(典型アメリカン)と、突然店番になっているメキシコ人(典型移民)
密室の中は、人種と歴史にまつわる暴力と憎悪が渦巻くアメリカだ。ただそうなるとデイジーの立ち位置が微妙になる。一見一方的な被虐対象である彼女だが、ルースは決して女だから平気で殴っているのではないし、殴られ続けるデイジーも懲りた様子もなくルースをバカにし、ゲラゲラ笑う。賞金首の大罪人と言われてはいるが、具体的にどのような罪を犯したのかは分からない。だが少なくとも、彼女はリンカーンがマーキスに宛てた手紙(実はマーキスが作った偽物だが)にツバを吐き、まじめに働く気のいい人々が彼女のせいで命を落とし、実は偽リンカーンの手紙に涙する純粋さを持ち合わせていたルースも死んだ。彼女には「アメリカの良心」をことごとく潰す純粋悪の役割があるそう思うと、彼女が『エクソシスト』の悪魔に憑かれたリーガンのごとき鬼の形相になっていくのも分かる気がするのだが。

『イングロリアス・バスターズ』ではナチスに、『ジャンゴ 繋がれざる者』では奴隷制度に対し、フィクションの世界ならではの代理復讐を遂げてきた近年のタラ。当初は本作もその流れを汲んでいるように思えたが、これは復讐ではなく希望だった。
オズワルドいわく「執行人が悪人の首を吊れば正義、犠牲者の遺族が殺人犯を殺せば西部の正義。一般に西部の正義のほうが好まれるが、それは正義ではない」(要約)。白人嫌悪の元北軍黒人マーキスと、黒人嫌悪の元南軍白人マニックスは、「悪人は捕えて正式に絞首刑にすべき」というルースの意思=西部劇以降のアメリカの正義を継ぎ、2人がかりでデイジー=アメリカの善を殺す悪を吊し上げる。そこに至るまでに血と死体の山が築かれているものの、「対立を超えて手を結び正義を成す」という字面を拾えば、アメコミヒーローにも通ずるアメリカの正義に対する希望の姿が見えてくる。
タランティーノはフィクションの力を、悪を倒してスカッとさせることだけでなく、その先に現実世界に希望を見出すためにも駆使した。偽リンカーンの手紙が、いち黒人の身を守る護符から、対立の壁に空いた最後の風穴になったように。この映画が、いまだアメリカのどこかでくすぶっている憎悪に対する偽リンカーンの手紙になったとしたら……そんな希望ぐらい託してみてもいいんじゃないだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿