2014年9月8日月曜日

トータル・リコール(1990)

シュワルツェネッガーは火星の夢を見るか(見たからこうなった)。

トータル・リコール('90)
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、レイチェル・ティコティン




夢に好きな俳優やアーティストが出てくることが結構あるのはラッキーだとは思う。
しかし、せっかくフレディ・クルーガーに会ったのにお互い挨拶スルーだったり、ゾッド将軍(マイケル・シャノン版)に説教されていながらろくに顔を見ていなかったり、リアム・ギャラガーの機嫌損ねるのが怖くて話しかけられなかったり、現実の小市民度がまるごと反映された展開ばかり。
どうせ夢だし設定は美味しいんだから、もっと無茶苦茶やれる展開にできないものかね自分。シュワルツェネッガーにボコられる役回りでも大歓迎だからさ。

ダグ・クエイドは地球で仕事と家庭を持ちながら、なぜか火星に魅せられ、毎晩見知らぬ女と火星にいる夢を見ていた。そんな折に、好きな記憶を脳に植え付けて旅行の擬似経験ができるというリコール社の広告を観たクエイドは、秘密諜報員として火星に行くという記憶を購入。しかし、記憶操作の処置の最中、クエイドに異変が生じる……。

今の自分は本当に自分か? 実は自分の人生は夢で、目を覚ました本来の自分は別人なのでは? という人間の記憶をテーマにしたSFを、ヴァーホーヴェン先生がお得意の悪趣味でくるめば、大作なのにカルト色が濃厚な一本に。ちなみにフィリップ・K・ディックの原作小説は未読。
ブラウン管TVが積まれた地下鉄、フェイスタイム(Skype?)通話もブラウン管、可愛くないどころか不気味で融通の利かない人形が運転するタクシー。『未来世紀ブラジル』を彷彿とさせるレトロフューチャー世界観が、ロブ・ボッディンがパペット主体で手掛けた特殊効果と相まって、地方のトリックアートミュージアムのような毒々しさを醸し出している。

おそらくその毒々しさがヴァーホーヴェン先生の趣味とぴったり噛み合ったのだろう。マッチョ系スーパーヒーロータイプのシュワルツェネッガーという、一見この世界には異質と思える主人公も、あっさりなじんでいる。
だいたいのことは腕力で解決できてしまうシュワの力は、本作の火星のトンネルに出没するどう見ても物量型のドリルマシンに似ているような気がするよ。

本作で何より話題になるのは、やりすぎなほどの死にざま(死にそうになるだけでも結構大変なことに)の数々だろう。冒頭にクエイドが見た火星の夢から、いきなり真空空間で顔面膨張&眼球が飛び出て死ぬ光景を目の当たりに。
いざ銃撃戦が始まれば、撃たれた相手は血と肉片を盛大にまき散らして死んでいくうえに、死体を盾にしたり踏みつけたりという節操のなさ。銃がなければ、首だの頭部だのに何かがぐっさり。こういうところを見ると、人間とは血と肉と臓物の詰まった袋なのだなと、ヴァーホーヴェン先生の思想につい染まってしまう。
ちなみに本作には、残虐描写をカットせずそのまま提出した(映画会社がどこまでOKするか反応を観るためだったらしい)完全版があったそうで、そちらもぜひ観てみたかったなぁ。

人が死ぬことはなくても、グロテスクな映像には事欠かない。クエイドが専用器具で鼻から大粒キャンディー大の発信機を引っ張り出すシーンなど、シュワの変顔(パペットだけど)からして妙に痛々しい。
火星に行ったら行ったで、放射能の影響でミュータントと化した住民たちの不気味な風貌が待ち構えている。特に鍵を握るレジスタンスのリーダー、クアトーのビジュアルは、今にすればレトロな技術と分かっていてもなかなかに不気味で衝撃的。ある意味それ以上にインパクト大なのが、歓楽街のおっぱい3つミュータント娼婦。
しかし、放射能による奇形って設定は今やったら確実にアウトだな。

本作のストーリーを覚えていない/知らない人ですら覚えているほど有名なのが、火星の入国審査で不審な動きをするおばちゃんの顔がパカパカと左右に割れ、中からシュワルツェネッガーが出てくるシーンだろう。一滴の血も流れないシーンだというのに、割れるおばちゃんの表情のグロさがすべてを持って行った。
しかしもちろん、割れる前のおばちゃんの顔……というかおばちゃん自身は生身の女優さん。あのビジュアルで、なおかつ口をアガアガさせる醜態をさらしてくれる女優さんをよくぞ見つけてきたものだ。

それにしても、本作の主要出演陣のなんとギラギラしていることか。
シュワはもともと筋肉バトルモードになれば汗でギラつきだす人だが、シュワとともに戦うヒロインのレイチェル・ティコティンすら容貌の濃さも相まってシュワ並みにギラギラ。ボスキャラたる火星長官のロニー・コックスも、あからさまにギラついてはいないものの、膨れ上がった権力欲と独占欲で内からギラギラがにじみ出ている。

それよりももっとギラギラしているのは、『面会時間』のストーカー殺人鬼同様ぶっ殺すと決めたらどこまでも執拗に追ってくるマイケル・アイアンサイド。ただし本作のアイアンサイドは上司たる火星長官に完全に頭が上がらないため、殺し屋といえどもスケールが矮小、だからこそ余計ゲスに見えるのがヴァーホーヴェン印。
そのアイアンサイドとギラギラカップルにして、ここからさらにのし上がる気満々のシャロン・ストーン。実際、この次のヴァーホーヴェン作品『氷の微笑』で大ブレイクするわけだが、出世作がギラギラを内包しつつ表向きはクールビューティーなのに対し、本作は表面からギラついている。

血しぶきとギラつきと欲とミュータントにまみれた星。火星ってホントにステキなところですね。

新橋文化劇場閉館に寄せて2

追憶の高架下61(何が61かは考えていない)。

良い話も、アレな話も、いろいろ思い入れがありすぎて1記事に収まらなかった新橋文化劇場の思い出の数々。

超能力少女と片脚マシンガールと生脚ガールズと。

実録殺人とリアル殺意(ハネムーン・キラーズ)

2,3列後ろのおっさんが轟音の屁をかますというテロ事件が発生。実話ベースの殺人事件の映画を観ながら現実にも殺意が芽生えるという前代未聞の事態に。


これはお化けか? JRか?(ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館)

薄暗い幽霊屋敷を歩くダニエル・ラドクリフ。時折背後に怪しい影も見える中、明らかに風のしわざではないガタガタという音が! これはポルターガイストが来たぞ! ……と思ったら、頭上を通過する電車の音だった。前述の屁テロ殺意事件といい、ある意味では4DX体験のできる映画館だったなぁ。

消耗品は木曜洋画劇場の香り(エクスペンダブルズ2)

新橋文化で観る『エクスペンダブルズ2』は、吹替でもないのになぜか今は亡き木曜洋画劇場の匂いがした。そしてこのとき、「チャック・ノリスの登場時にたまたま電車が通ったのではない。チャック・ノリスが自らの登場に合わせて電車を呼び寄せたのだ」という新たなチャック・ノリス・ファクトが……

新橋文化とセガールの相性の良さは異常。(沈黙の戦艦&暴走特急)

戦艦や列車をジャックしたはいいが、たまたまそこに最強のコックが居合わせてしまったばかりに悲惨な目に遭うテロリストグループの悲劇を描く、セガールのケイシー・ライバック無双もの。アクションの見せ場はありつつ「あー犯人かわいそー」と気楽に構えていられる両作は、実に新橋文化向きだった。

最強のオヤジと最強の拳二本立て。

新橋文化とエド・ウッドの相性の良さも異常。(プラン9・フロム・アウタースペース&怪物の花嫁)

史上最低の映画監督の作品を観ながらこんなにも充足感を得られたのは史上初です。エド映画のベラ・ルゴシにこんなにも「ありがとう」と言いたくなる感じも史上初です。

『怪物の花嫁』は、『ローズマリーの赤ちゃん』とともにクリスマスイヴに観たという……

グラインドハウス in グラインドハウス(グラインドハウスU.S.A.)

グラインドハウス好きがグラインドハウス風に偽予告編も込みで作ったグラインドハウス映画をジャパニーズグラインドハウスで上映。それだけで最高じゃないか。「The End」の爆笑も忘れられないよ。

「お前らサイコーだぜ! 楽しかったよ!」(カート・ラッセルの声で)

高架下で見つけた、人類の希望と絶望。(コンタクト&トゥモロー・ワールド)

科学と宗教という相容れなかった分野が思いがけず宇宙を通して交わる『コンタクト』。銃撃をピタリと止ませる赤ん坊の泣き声の神聖さと、それでも再び始まる銃撃戦の無慈悲さの『トゥモロー・ワールド』。いや、新橋文化さんのツイートに載ってた、小学生が描いたような「イモマンガ」につられて観に行った甲斐があった!

サヴィーニ先生すみません。(ゾンビ ダリオ・アルジェント監修版)

バイカー役で出演していたサヴィーニ先生が映った瞬間、私と同じ並びに座っていた男性2名とが同時に「ふふふふふ」と笑ってしまった。『プラネット・テラー』のときもサヴィーニ先生が映った途端クスクス笑いが起きてたし、そういう扱いなんだろうか……?

ポスター「肉をくれ! もっと若い肉を!」
世間一般「チョコをくれ! 義理でもいいからチョコを!」
そう、これを『プラン9』と二本立てで観た日は……

ううらみぃぃぃぃぃぶぅぅぅしぃぃぃぃぃぃ(キル・ビルVol.1)

初めて劇場で観たときには、唐突に日本語の歌だったからか違和感を覚えたエンディングの「恨み節」。新橋で観たら、なぜか違和感が初見時の5%にまで低下しました。

最後のひととき(デス・プルーフ in グラインドハウス&タクシードライバー)

いつも劇場を爆笑の渦に巻き込む「The End」のみならず、そのしばらく前のある時点から場内爆笑続きだった『デス・プルーフ』。退廃的なニューヨークの歓楽街と新橋高架下の空気とが思いがけず交わってしまった『タクシードライバー』。幸せにして切ない終幕のときだった。そして終演後、劇場の外で看板を撮影する観客たちをかき分けるように通っていったタクシー、運転してるのがトラヴィスじゃないかと思ってしまったよ。

実は新橋文化さんがラスト上映を決めあぐねていたころ、密かに「『デス・プルーフ』とかダメかなぁ」と思っていた人。まさか本当に上映してくれるなんて……本当に本当にありがとう新橋文化さん!!

2014年9月4日木曜日

新橋文化劇場閉館に寄せて

グラインドハウス体験をありがとう。

2014.8.31. 新橋文化劇場、閉館。



ある人にとっては懐かしいと映るだろう(私の母はこちら寄り)。うるさいし落ち着かないしあまり居心地よくない、という人もいるだろう。私の目には、この劇場はとても斬新に映った。

JRの高架下という、通常ならまず考えられない立地条件。

ロビーなんてものは存在しない。入ったら直でスクリーン。

たとえ上映から1時間近く経過していようと入ってもいい、終わりまであと1時間以上残っていようと出て行ってもいいという、入れ替えなしのフリーダムさ。

トイレは……と探してみれば、まさかのスクリーン両脇。上映中に誰かがトイレに立てば、必然的に映画の隣から蛍光灯の光がだだ漏れる(特にメンズ側)。

ひざ掛けの貸し出しはやっているのでこれ幸いと頼んでみれば、相手がメタルT着用であろうとゴス風であろうと、果てはあまりシャキッとしてなさげなおじさんであろうと、容赦なく手渡されるピンクのリラックマブランケット。

さらに容赦のないことに、たとえ緊迫のシーンであろうとキメのシーンであろうと、頭上を通過していくJRの車両の音。

おまけに客席も、居眠り率が高く、ビニール音とコンビニ飯臭は常習的に存在。ヒドければ前方から脂臭が漂ってきたり、イビキが聞こえたり、屁テロ事件さえ発生した。

そんな劇場なのに、あんなにも居心地が良かったのはなぜなんだろう。

↓スクリーンの左右に注目していただきたい。
お分かりいただけただろうか……?

映画オタクが常に映画を全身全霊で、敬意をもって観ているかといえば、決してそんなことはない。ものすごく地雷臭いんだけどあえてスクリーンで……と思って劇場で観賞したものの、途中から「自分が監督だったらああしてこうして……」と脳内編集を始めてしまうこともある。
一方、地上波放映の洋画劇場をダラダラながら観するつもりが、スナックをバクバクしながらつい最後までマジメに観てしまうこともある。マジメにならなくても何となく最後まで観てることもある。

新橋文化劇場はそういう体験ができる劇場だった。一般のシネコンやキレイな劇場とはちがった、どこかダラけた空気だからこそ引き出せる映画の魅力があの高架下にあった。そういう魅力を引き出せる上映作品チョイスも優れていた。
タランティーノ映画で初めて知った「グラインドハウス」とは、こんな感じに近いのではないだろうか。二本立て上映も入れ替えなし出入り自由もリアルタイムで経験したことのない人間なので、いわゆるグラインドハウスに関しては、タランティーノや町山智浩さんの話から想像することしかできない。
だから明言はできないけど、新橋文化はそうした話に聞くグラインドハウスに限りなく近い空気を体験できる劇場だったのかもしれない。あの居心地の良さには、映画オタクとしての憧れ空間に近づけた満足感も含まれていたのだろうな。

↓過去に上映してた作品。観たかったよ。
特に『悪魔のいけにえ2』、密かにリクエストしてただけに……

こうした映画のラインナップは、新文芸坐あたりが継承してくれると思う。というより、新文芸坐は新橋文化と並んで濃ゆい二本立てやオールナイト企画を実践してくれる名画座だ。今は亡きシアターN渋谷のスピリットだって、ヒューマントラストシネマ渋谷が受け継いでくれた。
ただ、高架下という環境と、決して汚くはないが適度に清潔すぎないあの空気は、おそらくもう再現できまい。自分にとってのグラインドハウスは、きっと失われたままだ。それに、あの見世物小屋のハイレベルな呼び込みさんのような、センスあるツイートの数々をもう見ることができないのも寂しい限り。基本、金持ち頼みなこと言うのは気に入らないんだけど、今回ばかりは言ってしまいたい。

あーあ、高架下のスペースを買い取って、映画館をつくって、ピカピカにしない程度に整備して、フィルム取り寄せて、新橋文化のTwitter担当さんを雇ってオープンしてくれるオタクな資産家が出てこないかなぁ!!!

ありがとう、新橋文化劇場。って言葉でも足りないぐらいありがとう、新橋文化劇場。
そして足を踏み入れるチャンスがなくてすみません、新橋ロマン劇場。


ホントにそうだよね、新橋文化劇場。